人とともに歩んだ自然の価値2023年08月20日


魚
自然を始めとする多様性は地形や気候など多様な場と交流する楽しさをもたらす。
人の中にある多様性を気づかせ、交流の幅を拡げる。自分が拡がる。
地球の自然は人よりずっと長い歴史の中で生きてきておりその価値も評価されている。

一方人とともに歩んだ自然の時間は比較するとずっと短い時間だが人の肉体的、精神的変化(進化と言われることがおおいようだが)のなかで分かちがたく繋がってきた。
人は大雑把には生まれた命は生をまっとうする。もう以前のように適者生存では進化しないという前提で過去から今に至る環境への対応を決まることになる。
過去に口にした栄養、毒素対応して発達した味覚や視覚、嗅覚、危険な獣や敵対部族への対応で得た距離感、複雑な地形を移動する中で得た身体性今の人の生活には鮮明には現れない経験を経た生き物として「変化・進化」し、習俗、文化をまとってきた。
そんな人はこれから容赦なく刻まれる時のなかで今後をどういきたらいいのだろう。
人が自然環境などの周りの環境の変化など小さな問題に見えるほど大切にこだわり続けねばならないもの(障害者といわれる人、多数の人にとって社会の安定を揺るがす少数の人たちへの人として共有できる対応)をもちつづけておれるだろうか。
人自身の自然性という意味で人の自然性は更に高く評価されていいのではないだろうかと思う。


モーツアルトと話す2015年10月12日

クラシック音楽といえばモーツアルトを思い浮かべるという人は多い。
だからモーツアルトの音楽が消えるというのはいかにもわざとらしく聞こえるかもしれない。

でもそんな瞬間が確かにある。
モーツアルトを聞いている、聞いているつもりだったのがふと音楽を聴いていることは忘れて二人で話しているような気持ちになることがある。
話をしていると言っても具体的な言葉が聞こえている訳はなくて、ただああそうだね、そうだったんだというような親友との意味もない馬鹿話の後に残るような暖かく、しかし寂しさを含んだ余韻だけ。
どうしたことだろうと思っていたら遠山一行氏の著述のなかではエクスでのフィガロの結婚を見た感激がこう表現されていた。

「私はその時に、音楽というようなものは本当はどこにもありはしないのだ、あるのは、ひとりびとりの音楽家のメッセージの真実さだけだ、ということを感じた。」注(1)
更におなじ体験を後に「新潮2002年十一月号--モーツアルトをめぐる十二章」ではこう記している。
「それはただすばらしい音楽を聴いたというだけではない。
むしろ音楽というものでさえなく、一人の人間の自由な声があるのだと思った。」
そう音楽でなくなる、音楽が透明になって消えてしまい残るのは作曲家の声だけ。

ここにはコミュニケーションと思想、芸術の基本的な関係が顕れているのではないだろうか。
ここでいうコミュニケーションとは特定の条件、枠での具体的な行動を促すことの要求の伝達という実利的な意味でのコミュニケーションのことではない。
本来的に群れで生きる種として変化してきた人類が精神的に他人の存在を我が身に不可欠な存在として自分の中に取り込む(自分個人の外に広がる自分自身の確保、確認ための)コミュニケーションの方法としての問題である。
集団で生きると言っても人はまったく個として独立して離れ離れに生まれ生活する。

生き物として神経も筋肉も血管も繋がっていない他人とどうコミュニケーションがとれるだろう。
普段同じような様式で生活しておれば共通の楽しみ、苦労、怒り等々のなかで共通の行動を観察することで意識されることもなくコミュニケーションはきっと成立していたであろう。

生物学的に同じような肉体を持っていれば風雨にさらされる辛さや空腹時に食物を得た喜び、硬いものに当たった時の痛さなど他人の感覚は自分の感覚として容易に共有できる。
人どころか犬や猫でも少しはコミュニケーションは可能かもしれない。
しかし他部族間同士、あるいは人口が増え、生産量が増え活動範囲が広がり生活体験の差が大きい人とも接するようになるとこのコミュニケーションは断ち切れてしまい新たな手段が求められるようになる。
どんな方法でコミュニケーションをとたらいいのだろう。

ここでも人類は道具を発明した。
まづ人類として共通体験の延長。
価値のある衣食住に必要な交換可能な品物、先ではお金のような経済的な道具にまで展開していき最強のコミュニケーションに発展したのかもしれない。

人はその拡大した脳の働きに見合った複雑な感情を持ったせいでコミュニケーションにも複雑な情報を伝え得ることが要求されることになった。
その手段又は道具として精神的な秩序の要求に発する正義や真実を軸と考える宗教や論理である。
また人間の肉体の共通性に基礎を発するスポーツや音楽、絵画彫刻などのいわゆる造形、演劇であろう。
音階やリズム、音色による音楽もその過程の中でうまれたのだろう。
そこでは音楽は特に楽器や歌にのってひろく楽しまれた。
しかし元々の目的は音の楽しみではなく、人とのコミュニケーションへの要求から始まったのだ。

音楽自身はコミュニケーションの道具であって目的ではなかった。
モーツアルトのファンが世界にたくさんおり、誰もがモーツアルトを論じたくなり、著作も数えきれないのは理由があるのである。

道具又は副産物としての音楽をすばやく通り過ぎて人どおしの本来のコミュニケーション、作者との直接ふれあったような感覚。
ここにモーツアルトが他の音楽家と違い、曲の詩情、伝わる高揚感・思想や、生き方ではなく、特に人として愛される理由が有るのではないだろうか。

演じるあなたは舞台の上で役柄にふさわしい位置に立っているだろうか。2013年10月21日

自分のいる位置との関係が実際の風景と一致しているか?
目の前に見える風景が自分の位置から断絶して(途切れて)いると混乱が生じる。
ストレスとなる。緊張、インパクト、驚き
適当な関係で繫がっているか。
過去の蓄積と違和感なく、その延長上に位置しているか。

距離にまつわる適当な関係
他人と我が身の安全な距離
重力の勾配に対応した安定した風景の中の自分の位置
何よりも目標として
自分の自由と優位は保証される位置
拡がり、他人に遮られない自分の身の延長
他人の侵入をゆるさない。中心、存在感、所有感
公園 庭を味わう、求める理由は?
拡がりの中で自己開放
自己と周りの自然や他人の中でっちょうど自分にぴったりあった位置と感じる場を見つけストレスから自由になる。
(普段は自分のこうああてほしい、こうあるべきだという位置認識が現実に感じる一認識が一致していないので公園や庭でそれを実現したい。--遊園地や娯楽小説、娯楽テレビも??)

拡がりを独り占め、他人は影響を感じる距離以上離れている。
適当な共有感にふさわしい距離だけ離れているのでストレスを感じない、つまりリラックス。
この創出と操作が造園の前提と考える。
自分のいる位置との関係が実際の風景と一致しているか?というのは
演じるあなたは舞台の上で役柄にふさわしい位置に立っているだろうか。ということだと思う。



他人と自分とコミュニケーション2013年09月17日

他人がみたものと自分が見た物は元々は差がなかったのかもしれない。
群れの中の一頭の鹿が危険を見つけて逃げると群れの他のしかも一斉に逃げ始める。
一頭が捕まっても痛みはない。群れであって肉体的に繫がっていないのだから当然であるが更にその個体にも痛みを感じる感情は無いのではないか。
つまり個と群れの差がないとき感情もない。
痛みの感情は個と群れ(他)が別になった時のコミュニケーションの必要性から生まれた機能ではないか。
つまり、もともと自分が見た物と他人が見た物の区別はなく、感情表現を介して伝わる過程で自分の痛み、体験と自分が得た情報としての痛み、経験を区別するようになり、自分と他人が分けられるようになったのではないか。
楽しさ、快楽、憩いの感覚もそんななかで意識されるようになったのではないか。
コミュニケーションの進化は社会の構成に変化を与え、結果として大きく広く拡がり強くなる。
社会の構成の進化の過程で顕れた成果の差異、評価が意識され始めた。
個人が所有と関連づけての体験が他人の体験と自分の体験を強く区別する習慣がついたのではないか。
個体の識別意識は消費の増大と表裏一体に異常に肥大し続け近代ができあがった。
今で言う「自己と他人」ができあがった。
人はすっかり変わってしまったのだろうか?。
でもすばらしい過去の庭園を見るたびに変わっていないと強く意識される。
やっぱり長い人の歴史から考えるとほんの短い間でしかない、つまり小さい変化ではないかとも思う。
近代的でない自己と他人」の関係、基礎となって生きている「自己と他人」があるような気がする。
それが時代の「小さな」変化に影響されない場のデザインに繫がるような気がします。
夏の稔り



新しい紙に絵を描く2013年09月11日

まず線を引こう
始めに鉛筆を選び新を研ぎ。先を紙にこすって丸め
紙に鉛筆をおろし線を引く。
紙の表面と鉛筆の芯の摩擦に心はふるえ始める。
手の感覚は紙と鉛筆のふれあいに驚き、うなずき、唇をしかめながら次に進む。
決めるのは手 私の心ははらはらとした緊張に耳を澄ますだけ。
はりさけそうなふるえの中で一枚の紙を線がはしり、あるとき線が止まる。
これでいい。
手が私に伝える。
私は鉛筆を置き、ため息をつく。
そしてまた鉛筆をとり、芯を研ぐ
odoroki

線を引くにしろ色を塗るにしろ絵が描けるのは私の後ろで誰かが手を延ばして書いているような気がした。
操り人形のように。
だからデッサンの練習とか色の塗り方の勉強など必要ないと想っていた。
でも実際には感動させられる作品はデッサンがめまいがするほどしっかりしていて色も想像できないほど工夫されていることが不思議だった。
でも最近になってやっとそのわけがすこし分かったような気がします。
機械的ないわば体育会的な練習と繰り返しの中で「手」に技術がやどり、人に伝わる線が「手」からうみだされる、身につくということばそのままですね。
気がつくのが大変遅かったですが他の人はとっくに気がついてたのだろうな。
こころはそのままで尊いものだけれど手は私と周りの社会、その時代の文化の橋渡しをする役割だから周りにあわせて訓練するとどんどん力が強くなる。
表現の幅を拡げ、強くひとに訴えるにはやっぱり努力が必要なんだ。
そんな苦労に耐えられるかな?