新しい紙に絵を描く2013年09月11日

まず線を引こう
始めに鉛筆を選び新を研ぎ。先を紙にこすって丸め
紙に鉛筆をおろし線を引く。
紙の表面と鉛筆の芯の摩擦に心はふるえ始める。
手の感覚は紙と鉛筆のふれあいに驚き、うなずき、唇をしかめながら次に進む。
決めるのは手 私の心ははらはらとした緊張に耳を澄ますだけ。
はりさけそうなふるえの中で一枚の紙を線がはしり、あるとき線が止まる。
これでいい。
手が私に伝える。
私は鉛筆を置き、ため息をつく。
そしてまた鉛筆をとり、芯を研ぐ
odoroki

線を引くにしろ色を塗るにしろ絵が描けるのは私の後ろで誰かが手を延ばして書いているような気がした。
操り人形のように。
だからデッサンの練習とか色の塗り方の勉強など必要ないと想っていた。
でも実際には感動させられる作品はデッサンがめまいがするほどしっかりしていて色も想像できないほど工夫されていることが不思議だった。
でも最近になってやっとそのわけがすこし分かったような気がします。
機械的ないわば体育会的な練習と繰り返しの中で「手」に技術がやどり、人に伝わる線が「手」からうみだされる、身につくということばそのままですね。
気がつくのが大変遅かったですが他の人はとっくに気がついてたのだろうな。
こころはそのままで尊いものだけれど手は私と周りの社会、その時代の文化の橋渡しをする役割だから周りにあわせて訓練するとどんどん力が強くなる。
表現の幅を拡げ、強くひとに訴えるにはやっぱり努力が必要なんだ。
そんな苦労に耐えられるかな?



TPOと農業2013年01月24日

不思議なかたちにできた氷
TPO参加議論にかんして農業の問題はいつまでも単純な貿易推進派と国内農業保護派の間のパワーゲームで平行線のままに見えるがそんな異業種間競争の問題だろうか。
日本の農業は片手間の兼業農家が大部分だから競争力がないという意見がある。
農業をその直接的な食料生産という点のみに限った経済上の評価では確かにその通り。
しかし農業はそんな狭い範囲での議論にはふさわしくない。
極端には芸術活動を営利上の価値で評価することに較べられる。
現実に文化の基盤としての農業に目をむけなければいけない。
基盤とは四季の風景の管理、自然との交流の維持、農耕文化によりつちかわれた風習、心のふるさと、価値基準それらを維持する生活としての農業。
一年の楽しみ、生活の節目、話題それらの基礎に農耕文化があるように思える。
我々は商業的な意図により積極的に進められている日常のイベントだけで満足できているのだろうか。
後になって経済上の操作により根付いているように見える多くのイベントも微妙に既存の文化の中に浮かんでいるのでそれらだけでは軽薄でみすぼらしい行事になりさがりとうてい満足感、幸福感をえられるようなものではないのではないか?というような想像をしてみたことはないだろうか。
気楽に外の文化から行事を移入して楽しめるという裏には豊かな文化への安心感が基礎にあるからではないかと、厳しい自然に立ち向かっている文化に接するたびに思う。
我々は自分の中の文化、つまり育ってきた過去を選ぶことはできない。
文化的な満足感、幸福感がなければ健全な消費意欲はわかづ持続的な内需拡大も見込めないだろう。
それとも世界に向かって作り続け売ることを競いつづけるることが我々の生活の目標なのだろうか。
好むと好まざるにかかわらづ今の我々には農耕文化が基礎にあり現在もそれを担っている主体は兼業農家なのだという現実から目をそらせるわけにはいかない。
食うか食えないかという時点ではどうでもいいことかもしれないが、そんな生活をTPOの議論では問題にしているのだろうか。
いや、むしろ世界を眺めると生きることが精一杯というような経済活動しかもてない生活のほうがより文化を大事にしていることに驚かされることが多いのではないだろうか。
私たちにとって生活全体のなかで経済活動はどれほどのものなのだろう。
我々は経験として災害や戦争で破壊された人工物を再建するのは単純に経済の問題で可能なことはよくわかっている、しかし捨てられた生活習慣、生活環境はほとんど復活できないことにも気がついているだろう。
一度捨てられた農業景観は決してもどらないことは肝に銘じるべきである。
議論の歯車はふさわしい位置と枠組みの中で噛み合わせなければならない。

三人寄れば文殊の知恵2012年07月27日

大阪万国博覧会や東京オリンピックといった国を挙げてという様な事業で名前が出てくる亀倉雄策と丹下健三、岡本太郎の三人。
丹下によるとこの三人が討論すると丁度みつどもえになったという。
丹下は亀倉にはやりこめられ、岡本は亀倉をこてんぱにいい岡本は丹下にはおとなしかったという。
おのおのの違いが典型的で興味深い。

亀倉のデザイン作業は創造的な種の整理整頓、つまり秩序、本来的に余分のそぎおとし。
結果的に常にはみ出したエネルギーはそがれおとなしくなる。
情報量は少なくなることで鮮明になるようをひたすら操作する。
グラフィックデザインは基本的にコントロール可能なスケールでの作業である。

丹下の建築はスケールと構造を持ち人間に対するインパクトは自然にわきでてくる。
積極的に利用するにしろやりすごし気がつかないようにするにしろ
そのコントロールにデザイン作業を使い結果的に折り合いをつけたことにする。
インパクトは変化しつつ残るがデザインの一貫性も不完全となる。

岡本の造形は秩序や隠蔽の破壊によるインパクトの表出作業であり、スケールや構造は表現要素の一部であるが、実際の表現に当たってはその物理的なコントロールが必然となり技術的な限界と戦わねばならない。
その技術を持つ建築家はは現実的に見方につけておきたい存在である。
情報は雑然としているかもしれないが、とにかく意図したい方向に強いことが重要である。

三人寄れば文殊の知恵ともいいますが確かにお互いがぶつかりあうと豊かな結果が期待できたようです。
空気を読むだけでは仕事は早く進んでも三人の知恵が一人の知恵に及ばないのは明らかで結果は推して知るべし。

高級料亭の庭とガラス2012年04月24日

高級な料亭やホテルの庭とはたいてい大きなガラスで隔てられている。
暑さ寒さに敏感な現代人には当たり前の光景だ。
でもたいていの場合美しいはずの景色は相客への挨拶の中だけで中途半端で不可解な景観がひろがっているだけ。
せっかくこんなにきれいにしている、見事!なのにどうしてだろう。

まづ庭との間にはは大きなガラス壁がある。
囲われて創られると自由が無くなる。
壁構造とは一の行動を制限する、止める壁で場をつくるということ。
暑さ寒さみ含めて厳重に守られた場ができあがる。
守られるという機能と引き替えに閉じこめられるという強制を受けることになる。
むしろ自由が無くなった言い訳が機能であると考えるようにしているようだ。
建築は西欧では人を操作する装置として建築をつくってきたともいえるかもしれない。

日本ではその意味での建築は一に対し支配的にならなかった。
異民族に対し、文化のシンボルをつくらねばならないという切迫した要求はなかった。
したがって自然現象からの選択的に選んだ機能つまり雨風よけとしてのシェルターを基本にその時代の文化的な嗜好で宗教性や差別化の要素をとりいれながら味わいのみ追求して技術が蓄積されてきた。
床の間、欄間、部屋の連なりによる柱、ふすま、障子等々。

日本建築で使われるガラスの(壁)の不安定な位置
人を止める壁が視線を止めない。
人を止めるために視線を止めるために使うのが壁のはづ。
壁とは野暮な衝立のはずだったのに。

茶室は壁で囲まれているがほんとうは衝立が必要なところにあればいいのだ。
だが 野の田舎屋をを想定しているので壁になってしまっただけ、壁で済みませんねという感じ。
文化的な施設の整った宮中ではなく、社会的な地位にとらわれることの不自由さからのつかの間の自由を得るための設備としての茶室、だから壁でもいいのだ、我慢するのだ。

さてここにガラスの壁のやっかいさがある。
衝立としての壁なら細かく格子でもつけてやるか
寝殿造りの縁のように庶民から引き離す高低差の代わりに使うか
ふすま絵や屏風絵のように景色をきりとるだけの絵としてみせることにするか?
いづれにしても混同されないことが基本となろう。



オペラの声2011年08月22日

若宮噴水
以前小澤征爾さんが若いオーケストラの指導でオペラ歌手の発声を聴かせる場面がテレビであった。
オペラでは声が大きいことは単純に優れた芸術へ近づく方法の一つだ。
まづ声が届かなくてはオペラにならないし、感動もできない。
実際にオペラ座であの歌唱を聴くと圧倒的な支配力も感じる。
同じようにヨーロッパの大聖堂の恐ろしく天井が高い内部にはいると強烈な支配力を感じる。
巨大であるか背の極端に高い構造物はどれも強い支配力をふりまくのは当たり前のことなのだろうか?。
富士山や、中央アルプスなどスケールの大きい自然の景観に強く我々の感覚は反応するが、支配力は意識されないのではないだろうか。
楠や杉の巨木を前にしてその荘厳さに打たれても支配されるように感じたことはない。
つまり大きいこと支配力を与えることが本来は同じことではないということ。
支配力を表現する手法になることは言うまでもないが、意図的でなくとも現代の構造物にはそんな表現が混じることに無頓着なものが多すぎるのではないか。
高層ビル街を歩くとそんな暴力的な支配力に圧倒される。
もっとも経済行為の高揚感につつまれたビジネスマンには一体感が感ぜられてここちよいのかもしれない。
ただ冷静な判断の必要とされる場面や、多様な創造性、独創性が求められる場面には不向きだろう。
実際は近代的な経済活動の継続にも不向きなのではないか。
日本も含め、西欧以外の文化遺産を見ると、美の価値の多様性を守ろうとするはっきりとした意志が見えている。
もしかして強さと美が等価という非常に単純な美意識の突出に疑問を感じないというのであれば、キリスト教圏独特の征服文化および価値観の無批判な受容で文化の植民地化による荒廃と貧困ということになるのだろう。

はじめの情報伝達とオペラの話に戻ると起承転結の起として大きいことは効率がいい。
誰もがたやすく注意を振り向ける。
一端注意を引きつけると後はそれほど強くなくてもしっかりと聴いてもらえる。
つまり次の情報交流の手を強く差し出すことになる。
一般の場合の問題ははじめが大きすぎると次に繋ぐのが難しくなるだけ。
オペラの場合はそのようなものとしてしっかり作曲されているので声の支配力は何ら問題なく、優秀さの要素である。