自然の美と秩序2011年02月21日

人が外の自然と直接に接したとき、その厳然たる現実に、はたと長い間たちすくまざるを得なかったことだろう。
しかし生きて子孫を増やし集団で生きて、社会として力をつけていくためにはそのままではいられない。
他の集団と競争しながら生存競争に打ち勝つためにはなんとかしなければいけない。
そのままでは混沌として認識できない自然をじっと観察すると見えてくる物がある。
ようやく認識できた部分のうち自分たちの生存に都合よく解釈できる部分をきっと秩序と呼んだのだと思う。
藤森輝信「建築史的モンダイ」によるとこの秩序や統一を人の目は美しいと感じたのである、とある。

非常にわかりやすい指摘。
建築を建築たらしめる部分を「美しいこと」と明快であるがもっと広く適用して考えてみたい。


桟で小さく仕切られたガラスの窓2011年02月25日




いつも指摘し続けているのにいっこうに変わらない建築の窓ガラスの使用の問題で元気づけてくれる著述を見つけた。
またまた藤森照信「建築史的モンダイ」の一節
「現代のガラスがいやで昔(はっきり透けていない)のがいい...透けてしまって無いように見えるのがいやなのだ....外のよい景色を眺めるための窓ならば細い桟を縦横に入れる...そこにガラスという透明な存在が確かにあることを示す..」
氏は理由はいやだとしか書いていないが、もっとはっきりとした理由がこの本の始めに書いてある。
「美とは視覚的な秩序があること」の反対だから。
きれいな風景が見たい、自然の拡がりに身を置きたいと思っているのだが、自分がいるこの場と外の間に何も無いでは困るのだ。
この場はまわりから安全に保護された「場」でないといけないのだ。
何も無いように見えるガラスでは困るのだ。
物理的にはその両方を完全に融合し完全に解決したはずなのに、人の感覚は納得できない。
安心して景色を楽しむことも広がりを味わうこともできず視覚と場の混乱の中で秩序は切り裂かれる。
はっきり美どころではない。
北海道の廃校で見た木造校舎の教室の窓、細かい桟で小さく四角に仕切られた窓越しの光のなんと心地よかったことか。
ついでに私と藤森氏の違い。
私は先の場を自分を包む服のように人のシェルターの本質的な要素「裸のように見えては困る!」と捉えているつもりだが氏は建築として美と好悪の問題と表現しておられる点にあるような気がする。
確かめさせてもらえるような機会があるだろうか。