ミカンの皮とリンゴの皮 ― 2011年08月19日

ミカンの皮は自立して中を守りおのおのが更に部屋をもっている。新から外側にかけて順序はあっても連続はしていない。
リンゴの皮はおいしい果実に塗られた皮膜にすぎず、皮だけ別にはがすことはできない。
日本の住宅の境界はリンゴの皮で身の部分に庭で芯にに部屋がある。
西欧の住宅の華やかな庭園は楽しい戸外室だが屋内の部屋とは対等のお隣の部屋というわけでこんなにうすっぺらくはないけれどミカン風。奥へいくほどプライベート色が強くなるという順序はありそう。
スペインや中東の中庭は閉じられた中で中心が甘い屋外に開いた部屋で固い皮のメロン。
喩えは問題を更に難しくすることのほうがおおいのだけれど夏の日の収穫を味わいながら思いを巡らす。
住宅は外から逃れ、逃れることで失った自由を取り戻す呻吟が形になった物。
結果的に、未熟なうちは種を守り、熟せば外へ広げる戦略に満ちた果実と似ていると言っても無理ばかりでもないと思う。
もっとも西欧の楽譜のような優れた表記さえ手に入れておれば、こんな喩えは詩の中だけで済むのだけれど。
リンゴの皮はおいしい果実に塗られた皮膜にすぎず、皮だけ別にはがすことはできない。
日本の住宅の境界はリンゴの皮で身の部分に庭で芯にに部屋がある。
西欧の住宅の華やかな庭園は楽しい戸外室だが屋内の部屋とは対等のお隣の部屋というわけでこんなにうすっぺらくはないけれどミカン風。奥へいくほどプライベート色が強くなるという順序はありそう。
スペインや中東の中庭は閉じられた中で中心が甘い屋外に開いた部屋で固い皮のメロン。
喩えは問題を更に難しくすることのほうがおおいのだけれど夏の日の収穫を味わいながら思いを巡らす。
住宅は外から逃れ、逃れることで失った自由を取り戻す呻吟が形になった物。
結果的に、未熟なうちは種を守り、熟せば外へ広げる戦略に満ちた果実と似ていると言っても無理ばかりでもないと思う。
もっとも西欧の楽譜のような優れた表記さえ手に入れておれば、こんな喩えは詩の中だけで済むのだけれど。
オペラの声 ― 2011年08月22日

以前小澤征爾さんが若いオーケストラの指導でオペラ歌手の発声を聴かせる場面がテレビであった。
オペラでは声が大きいことは単純に優れた芸術へ近づく方法の一つだ。
まづ声が届かなくてはオペラにならないし、感動もできない。
実際にオペラ座であの歌唱を聴くと圧倒的な支配力も感じる。
同じようにヨーロッパの大聖堂の恐ろしく天井が高い内部にはいると強烈な支配力を感じる。
巨大であるか背の極端に高い構造物はどれも強い支配力をふりまくのは当たり前のことなのだろうか?。
富士山や、中央アルプスなどスケールの大きい自然の景観に強く我々の感覚は反応するが、支配力は意識されないのではないだろうか。
楠や杉の巨木を前にしてその荘厳さに打たれても支配されるように感じたことはない。
つまり大きいこと支配力を与えることが本来は同じことではないということ。
支配力を表現する手法になることは言うまでもないが、意図的でなくとも現代の構造物にはそんな表現が混じることに無頓着なものが多すぎるのではないか。
高層ビル街を歩くとそんな暴力的な支配力に圧倒される。
もっとも経済行為の高揚感につつまれたビジネスマンには一体感が感ぜられてここちよいのかもしれない。
ただ冷静な判断の必要とされる場面や、多様な創造性、独創性が求められる場面には不向きだろう。
実際は近代的な経済活動の継続にも不向きなのではないか。
日本も含め、西欧以外の文化遺産を見ると、美の価値の多様性を守ろうとするはっきりとした意志が見えている。
もしかして強さと美が等価という非常に単純な美意識の突出に疑問を感じないというのであれば、キリスト教圏独特の征服文化および価値観の無批判な受容で文化の植民地化による荒廃と貧困ということになるのだろう。
はじめの情報伝達とオペラの話に戻ると起承転結の起として大きいことは効率がいい。
誰もがたやすく注意を振り向ける。
一端注意を引きつけると後はそれほど強くなくてもしっかりと聴いてもらえる。
つまり次の情報交流の手を強く差し出すことになる。
一般の場合の問題ははじめが大きすぎると次に繋ぐのが難しくなるだけ。
オペラの場合はそのようなものとしてしっかり作曲されているので声の支配力は何ら問題なく、優秀さの要素である。
オペラでは声が大きいことは単純に優れた芸術へ近づく方法の一つだ。
まづ声が届かなくてはオペラにならないし、感動もできない。
実際にオペラ座であの歌唱を聴くと圧倒的な支配力も感じる。
同じようにヨーロッパの大聖堂の恐ろしく天井が高い内部にはいると強烈な支配力を感じる。
巨大であるか背の極端に高い構造物はどれも強い支配力をふりまくのは当たり前のことなのだろうか?。
富士山や、中央アルプスなどスケールの大きい自然の景観に強く我々の感覚は反応するが、支配力は意識されないのではないだろうか。
楠や杉の巨木を前にしてその荘厳さに打たれても支配されるように感じたことはない。
つまり大きいこと支配力を与えることが本来は同じことではないということ。
支配力を表現する手法になることは言うまでもないが、意図的でなくとも現代の構造物にはそんな表現が混じることに無頓着なものが多すぎるのではないか。
高層ビル街を歩くとそんな暴力的な支配力に圧倒される。
もっとも経済行為の高揚感につつまれたビジネスマンには一体感が感ぜられてここちよいのかもしれない。
ただ冷静な判断の必要とされる場面や、多様な創造性、独創性が求められる場面には不向きだろう。
実際は近代的な経済活動の継続にも不向きなのではないか。
日本も含め、西欧以外の文化遺産を見ると、美の価値の多様性を守ろうとするはっきりとした意志が見えている。
もしかして強さと美が等価という非常に単純な美意識の突出に疑問を感じないというのであれば、キリスト教圏独特の征服文化および価値観の無批判な受容で文化の植民地化による荒廃と貧困ということになるのだろう。
はじめの情報伝達とオペラの話に戻ると起承転結の起として大きいことは効率がいい。
誰もがたやすく注意を振り向ける。
一端注意を引きつけると後はそれほど強くなくてもしっかりと聴いてもらえる。
つまり次の情報交流の手を強く差し出すことになる。
一般の場合の問題ははじめが大きすぎると次に繋ぐのが難しくなるだけ。
オペラの場合はそのようなものとしてしっかり作曲されているので声の支配力は何ら問題なく、優秀さの要素である。
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