TPOと農業2013年01月24日

不思議なかたちにできた氷
TPO参加議論にかんして農業の問題はいつまでも単純な貿易推進派と国内農業保護派の間のパワーゲームで平行線のままに見えるがそんな異業種間競争の問題だろうか。
日本の農業は片手間の兼業農家が大部分だから競争力がないという意見がある。
農業をその直接的な食料生産という点のみに限った経済上の評価では確かにその通り。
しかし農業はそんな狭い範囲での議論にはふさわしくない。
極端には芸術活動を営利上の価値で評価することに較べられる。
現実に文化の基盤としての農業に目をむけなければいけない。
基盤とは四季の風景の管理、自然との交流の維持、農耕文化によりつちかわれた風習、心のふるさと、価値基準それらを維持する生活としての農業。
一年の楽しみ、生活の節目、話題それらの基礎に農耕文化があるように思える。
我々は商業的な意図により積極的に進められている日常のイベントだけで満足できているのだろうか。
後になって経済上の操作により根付いているように見える多くのイベントも微妙に既存の文化の中に浮かんでいるのでそれらだけでは軽薄でみすぼらしい行事になりさがりとうてい満足感、幸福感をえられるようなものではないのではないか?というような想像をしてみたことはないだろうか。
気楽に外の文化から行事を移入して楽しめるという裏には豊かな文化への安心感が基礎にあるからではないかと、厳しい自然に立ち向かっている文化に接するたびに思う。
我々は自分の中の文化、つまり育ってきた過去を選ぶことはできない。
文化的な満足感、幸福感がなければ健全な消費意欲はわかづ持続的な内需拡大も見込めないだろう。
それとも世界に向かって作り続け売ることを競いつづけるることが我々の生活の目標なのだろうか。
好むと好まざるにかかわらづ今の我々には農耕文化が基礎にあり現在もそれを担っている主体は兼業農家なのだという現実から目をそらせるわけにはいかない。
食うか食えないかという時点ではどうでもいいことかもしれないが、そんな生活をTPOの議論では問題にしているのだろうか。
いや、むしろ世界を眺めると生きることが精一杯というような経済活動しかもてない生活のほうがより文化を大事にしていることに驚かされることが多いのではないだろうか。
私たちにとって生活全体のなかで経済活動はどれほどのものなのだろう。
我々は経験として災害や戦争で破壊された人工物を再建するのは単純に経済の問題で可能なことはよくわかっている、しかし捨てられた生活習慣、生活環境はほとんど復活できないことにも気がついているだろう。
一度捨てられた農業景観は決してもどらないことは肝に銘じるべきである。
議論の歯車はふさわしい位置と枠組みの中で噛み合わせなければならない。