新しい紙に絵を描く ― 2013年09月11日
まず線を引こう
始めに鉛筆を選び新を研ぎ。先を紙にこすって丸め
紙に鉛筆をおろし線を引く。
紙の表面と鉛筆の芯の摩擦に心はふるえ始める。
手の感覚は紙と鉛筆のふれあいに驚き、うなずき、唇をしかめながら次に進む。
決めるのは手 私の心ははらはらとした緊張に耳を澄ますだけ。
はりさけそうなふるえの中で一枚の紙を線がはしり、あるとき線が止まる。
これでいい。
手が私に伝える。
私は鉛筆を置き、ため息をつく。
そしてまた鉛筆をとり、芯を研ぐ
始めに鉛筆を選び新を研ぎ。先を紙にこすって丸め
紙に鉛筆をおろし線を引く。
紙の表面と鉛筆の芯の摩擦に心はふるえ始める。
手の感覚は紙と鉛筆のふれあいに驚き、うなずき、唇をしかめながら次に進む。
決めるのは手 私の心ははらはらとした緊張に耳を澄ますだけ。
はりさけそうなふるえの中で一枚の紙を線がはしり、あるとき線が止まる。
これでいい。
手が私に伝える。
私は鉛筆を置き、ため息をつく。
そしてまた鉛筆をとり、芯を研ぐ
線を引くにしろ色を塗るにしろ絵が描けるのは私の後ろで誰かが手を延ばして書いているような気がした。
操り人形のように。
だからデッサンの練習とか色の塗り方の勉強など必要ないと想っていた。
でも実際には感動させられる作品はデッサンがめまいがするほどしっかりしていて色も想像できないほど工夫されていることが不思議だった。
でも最近になってやっとそのわけがすこし分かったような気がします。
機械的ないわば体育会的な練習と繰り返しの中で「手」に技術がやどり、人に伝わる線が「手」からうみだされる、身につくということばそのままですね。
気がつくのが大変遅かったですが他の人はとっくに気がついてたのだろうな。
こころはそのままで尊いものだけれど手は私と周りの社会、その時代の文化の橋渡しをする役割だから周りにあわせて訓練するとどんどん力が強くなる。
表現の幅を拡げ、強くひとに訴えるにはやっぱり努力が必要なんだ。
そんな苦労に耐えられるかな?
他人と自分とコミュニケーション ― 2013年09月17日
他人がみたものと自分が見た物は元々は差がなかったのかもしれない。
群れの中の一頭の鹿が危険を見つけて逃げると群れの他のしかも一斉に逃げ始める。
一頭が捕まっても痛みはない。群れであって肉体的に繫がっていないのだから当然であるが更にその個体にも痛みを感じる感情は無いのではないか。
つまり個と群れの差がないとき感情もない。
痛みの感情は個と群れ(他)が別になった時のコミュニケーションの必要性から生まれた機能ではないか。
つまり、もともと自分が見た物と他人が見た物の区別はなく、感情表現を介して伝わる過程で自分の痛み、体験と自分が得た情報としての痛み、経験を区別するようになり、自分と他人が分けられるようになったのではないか。
楽しさ、快楽、憩いの感覚もそんななかで意識されるようになったのではないか。
コミュニケーションの進化は社会の構成に変化を与え、結果として大きく広く拡がり強くなる。
社会の構成の進化の過程で顕れた成果の差異、評価が意識され始めた。
個人が所有と関連づけての体験が他人の体験と自分の体験を強く区別する習慣がついたのではないか。
個体の識別意識は消費の増大と表裏一体に異常に肥大し続け近代ができあがった。
今で言う「自己と他人」ができあがった。
人はすっかり変わってしまったのだろうか?。
でもすばらしい過去の庭園を見るたびに変わっていないと強く意識される。
やっぱり長い人の歴史から考えるとほんの短い間でしかない、つまり小さい変化ではないかとも思う。
近代的でない自己と他人」の関係、基礎となって生きている「自己と他人」があるような気がする。
それが時代の「小さな」変化に影響されない場のデザインに繫がるような気がします。
群れの中の一頭の鹿が危険を見つけて逃げると群れの他のしかも一斉に逃げ始める。
一頭が捕まっても痛みはない。群れであって肉体的に繫がっていないのだから当然であるが更にその個体にも痛みを感じる感情は無いのではないか。
つまり個と群れの差がないとき感情もない。
痛みの感情は個と群れ(他)が別になった時のコミュニケーションの必要性から生まれた機能ではないか。
つまり、もともと自分が見た物と他人が見た物の区別はなく、感情表現を介して伝わる過程で自分の痛み、体験と自分が得た情報としての痛み、経験を区別するようになり、自分と他人が分けられるようになったのではないか。
楽しさ、快楽、憩いの感覚もそんななかで意識されるようになったのではないか。
コミュニケーションの進化は社会の構成に変化を与え、結果として大きく広く拡がり強くなる。
社会の構成の進化の過程で顕れた成果の差異、評価が意識され始めた。
個人が所有と関連づけての体験が他人の体験と自分の体験を強く区別する習慣がついたのではないか。
個体の識別意識は消費の増大と表裏一体に異常に肥大し続け近代ができあがった。
今で言う「自己と他人」ができあがった。
人はすっかり変わってしまったのだろうか?。
でもすばらしい過去の庭園を見るたびに変わっていないと強く意識される。
やっぱり長い人の歴史から考えるとほんの短い間でしかない、つまり小さい変化ではないかとも思う。
近代的でない自己と他人」の関係、基礎となって生きている「自己と他人」があるような気がする。
それが時代の「小さな」変化に影響されない場のデザインに繫がるような気がします。

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