他人と自分とコミュニケーション2013年09月17日

他人がみたものと自分が見た物は元々は差がなかったのかもしれない。
群れの中の一頭の鹿が危険を見つけて逃げると群れの他のしかも一斉に逃げ始める。
一頭が捕まっても痛みはない。群れであって肉体的に繫がっていないのだから当然であるが更にその個体にも痛みを感じる感情は無いのではないか。
つまり個と群れの差がないとき感情もない。
痛みの感情は個と群れ(他)が別になった時のコミュニケーションの必要性から生まれた機能ではないか。
つまり、もともと自分が見た物と他人が見た物の区別はなく、感情表現を介して伝わる過程で自分の痛み、体験と自分が得た情報としての痛み、経験を区別するようになり、自分と他人が分けられるようになったのではないか。
楽しさ、快楽、憩いの感覚もそんななかで意識されるようになったのではないか。
コミュニケーションの進化は社会の構成に変化を与え、結果として大きく広く拡がり強くなる。
社会の構成の進化の過程で顕れた成果の差異、評価が意識され始めた。
個人が所有と関連づけての体験が他人の体験と自分の体験を強く区別する習慣がついたのではないか。
個体の識別意識は消費の増大と表裏一体に異常に肥大し続け近代ができあがった。
今で言う「自己と他人」ができあがった。
人はすっかり変わってしまったのだろうか?。
でもすばらしい過去の庭園を見るたびに変わっていないと強く意識される。
やっぱり長い人の歴史から考えるとほんの短い間でしかない、つまり小さい変化ではないかとも思う。
近代的でない自己と他人」の関係、基礎となって生きている「自己と他人」があるような気がする。
それが時代の「小さな」変化に影響されない場のデザインに繫がるような気がします。
夏の稔り



TPOと農業2013年01月24日

不思議なかたちにできた氷
TPO参加議論にかんして農業の問題はいつまでも単純な貿易推進派と国内農業保護派の間のパワーゲームで平行線のままに見えるがそんな異業種間競争の問題だろうか。
日本の農業は片手間の兼業農家が大部分だから競争力がないという意見がある。
農業をその直接的な食料生産という点のみに限った経済上の評価では確かにその通り。
しかし農業はそんな狭い範囲での議論にはふさわしくない。
極端には芸術活動を営利上の価値で評価することに較べられる。
現実に文化の基盤としての農業に目をむけなければいけない。
基盤とは四季の風景の管理、自然との交流の維持、農耕文化によりつちかわれた風習、心のふるさと、価値基準それらを維持する生活としての農業。
一年の楽しみ、生活の節目、話題それらの基礎に農耕文化があるように思える。
我々は商業的な意図により積極的に進められている日常のイベントだけで満足できているのだろうか。
後になって経済上の操作により根付いているように見える多くのイベントも微妙に既存の文化の中に浮かんでいるのでそれらだけでは軽薄でみすぼらしい行事になりさがりとうてい満足感、幸福感をえられるようなものではないのではないか?というような想像をしてみたことはないだろうか。
気楽に外の文化から行事を移入して楽しめるという裏には豊かな文化への安心感が基礎にあるからではないかと、厳しい自然に立ち向かっている文化に接するたびに思う。
我々は自分の中の文化、つまり育ってきた過去を選ぶことはできない。
文化的な満足感、幸福感がなければ健全な消費意欲はわかづ持続的な内需拡大も見込めないだろう。
それとも世界に向かって作り続け売ることを競いつづけるることが我々の生活の目標なのだろうか。
好むと好まざるにかかわらづ今の我々には農耕文化が基礎にあり現在もそれを担っている主体は兼業農家なのだという現実から目をそらせるわけにはいかない。
食うか食えないかという時点ではどうでもいいことかもしれないが、そんな生活をTPOの議論では問題にしているのだろうか。
いや、むしろ世界を眺めると生きることが精一杯というような経済活動しかもてない生活のほうがより文化を大事にしていることに驚かされることが多いのではないだろうか。
私たちにとって生活全体のなかで経済活動はどれほどのものなのだろう。
我々は経験として災害や戦争で破壊された人工物を再建するのは単純に経済の問題で可能なことはよくわかっている、しかし捨てられた生活習慣、生活環境はほとんど復活できないことにも気がついているだろう。
一度捨てられた農業景観は決してもどらないことは肝に銘じるべきである。
議論の歯車はふさわしい位置と枠組みの中で噛み合わせなければならない。