人とともに歩んだ自然の価値2023年08月20日


魚
自然を始めとする多様性は地形や気候など多様な場と交流する楽しさをもたらす。
人の中にある多様性を気づかせ、交流の幅を拡げる。自分が拡がる。
地球の自然は人よりずっと長い歴史の中で生きてきておりその価値も評価されている。

一方人とともに歩んだ自然の時間は比較するとずっと短い時間だが人の肉体的、精神的変化(進化と言われることがおおいようだが)のなかで分かちがたく繋がってきた。
人は大雑把には生まれた命は生をまっとうする。もう以前のように適者生存では進化しないという前提で過去から今に至る環境への対応を決まることになる。
過去に口にした栄養、毒素対応して発達した味覚や視覚、嗅覚、危険な獣や敵対部族への対応で得た距離感、複雑な地形を移動する中で得た身体性今の人の生活には鮮明には現れない経験を経た生き物として「変化・進化」し、習俗、文化をまとってきた。
そんな人はこれから容赦なく刻まれる時のなかで今後をどういきたらいいのだろう。
人が自然環境などの周りの環境の変化など小さな問題に見えるほど大切にこだわり続けねばならないもの(障害者といわれる人、多数の人にとって社会の安定を揺るがす少数の人たちへの人として共有できる対応)をもちつづけておれるだろうか。
人自身の自然性という意味で人の自然性は更に高く評価されていいのではないだろうかと思う。


演じるあなたは舞台の上で役柄にふさわしい位置に立っているだろうか。2013年10月21日

自分のいる位置との関係が実際の風景と一致しているか?
目の前に見える風景が自分の位置から断絶して(途切れて)いると混乱が生じる。
ストレスとなる。緊張、インパクト、驚き
適当な関係で繫がっているか。
過去の蓄積と違和感なく、その延長上に位置しているか。

距離にまつわる適当な関係
他人と我が身の安全な距離
重力の勾配に対応した安定した風景の中の自分の位置
何よりも目標として
自分の自由と優位は保証される位置
拡がり、他人に遮られない自分の身の延長
他人の侵入をゆるさない。中心、存在感、所有感
公園 庭を味わう、求める理由は?
拡がりの中で自己開放
自己と周りの自然や他人の中でっちょうど自分にぴったりあった位置と感じる場を見つけストレスから自由になる。
(普段は自分のこうああてほしい、こうあるべきだという位置認識が現実に感じる一認識が一致していないので公園や庭でそれを実現したい。--遊園地や娯楽小説、娯楽テレビも??)

拡がりを独り占め、他人は影響を感じる距離以上離れている。
適当な共有感にふさわしい距離だけ離れているのでストレスを感じない、つまりリラックス。
この創出と操作が造園の前提と考える。
自分のいる位置との関係が実際の風景と一致しているか?というのは
演じるあなたは舞台の上で役柄にふさわしい位置に立っているだろうか。ということだと思う。



TPOと農業2013年01月24日

不思議なかたちにできた氷
TPO参加議論にかんして農業の問題はいつまでも単純な貿易推進派と国内農業保護派の間のパワーゲームで平行線のままに見えるがそんな異業種間競争の問題だろうか。
日本の農業は片手間の兼業農家が大部分だから競争力がないという意見がある。
農業をその直接的な食料生産という点のみに限った経済上の評価では確かにその通り。
しかし農業はそんな狭い範囲での議論にはふさわしくない。
極端には芸術活動を営利上の価値で評価することに較べられる。
現実に文化の基盤としての農業に目をむけなければいけない。
基盤とは四季の風景の管理、自然との交流の維持、農耕文化によりつちかわれた風習、心のふるさと、価値基準それらを維持する生活としての農業。
一年の楽しみ、生活の節目、話題それらの基礎に農耕文化があるように思える。
我々は商業的な意図により積極的に進められている日常のイベントだけで満足できているのだろうか。
後になって経済上の操作により根付いているように見える多くのイベントも微妙に既存の文化の中に浮かんでいるのでそれらだけでは軽薄でみすぼらしい行事になりさがりとうてい満足感、幸福感をえられるようなものではないのではないか?というような想像をしてみたことはないだろうか。
気楽に外の文化から行事を移入して楽しめるという裏には豊かな文化への安心感が基礎にあるからではないかと、厳しい自然に立ち向かっている文化に接するたびに思う。
我々は自分の中の文化、つまり育ってきた過去を選ぶことはできない。
文化的な満足感、幸福感がなければ健全な消費意欲はわかづ持続的な内需拡大も見込めないだろう。
それとも世界に向かって作り続け売ることを競いつづけるることが我々の生活の目標なのだろうか。
好むと好まざるにかかわらづ今の我々には農耕文化が基礎にあり現在もそれを担っている主体は兼業農家なのだという現実から目をそらせるわけにはいかない。
食うか食えないかという時点ではどうでもいいことかもしれないが、そんな生活をTPOの議論では問題にしているのだろうか。
いや、むしろ世界を眺めると生きることが精一杯というような経済活動しかもてない生活のほうがより文化を大事にしていることに驚かされることが多いのではないだろうか。
私たちにとって生活全体のなかで経済活動はどれほどのものなのだろう。
我々は経験として災害や戦争で破壊された人工物を再建するのは単純に経済の問題で可能なことはよくわかっている、しかし捨てられた生活習慣、生活環境はほとんど復活できないことにも気がついているだろう。
一度捨てられた農業景観は決してもどらないことは肝に銘じるべきである。
議論の歯車はふさわしい位置と枠組みの中で噛み合わせなければならない。

高級料亭の庭とガラス2012年04月24日

高級な料亭やホテルの庭とはたいてい大きなガラスで隔てられている。
暑さ寒さに敏感な現代人には当たり前の光景だ。
でもたいていの場合美しいはずの景色は相客への挨拶の中だけで中途半端で不可解な景観がひろがっているだけ。
せっかくこんなにきれいにしている、見事!なのにどうしてだろう。

まづ庭との間にはは大きなガラス壁がある。
囲われて創られると自由が無くなる。
壁構造とは一の行動を制限する、止める壁で場をつくるということ。
暑さ寒さみ含めて厳重に守られた場ができあがる。
守られるという機能と引き替えに閉じこめられるという強制を受けることになる。
むしろ自由が無くなった言い訳が機能であると考えるようにしているようだ。
建築は西欧では人を操作する装置として建築をつくってきたともいえるかもしれない。

日本ではその意味での建築は一に対し支配的にならなかった。
異民族に対し、文化のシンボルをつくらねばならないという切迫した要求はなかった。
したがって自然現象からの選択的に選んだ機能つまり雨風よけとしてのシェルターを基本にその時代の文化的な嗜好で宗教性や差別化の要素をとりいれながら味わいのみ追求して技術が蓄積されてきた。
床の間、欄間、部屋の連なりによる柱、ふすま、障子等々。

日本建築で使われるガラスの(壁)の不安定な位置
人を止める壁が視線を止めない。
人を止めるために視線を止めるために使うのが壁のはづ。
壁とは野暮な衝立のはずだったのに。

茶室は壁で囲まれているがほんとうは衝立が必要なところにあればいいのだ。
だが 野の田舎屋をを想定しているので壁になってしまっただけ、壁で済みませんねという感じ。
文化的な施設の整った宮中ではなく、社会的な地位にとらわれることの不自由さからのつかの間の自由を得るための設備としての茶室、だから壁でもいいのだ、我慢するのだ。

さてここにガラスの壁のやっかいさがある。
衝立としての壁なら細かく格子でもつけてやるか
寝殿造りの縁のように庶民から引き離す高低差の代わりに使うか
ふすま絵や屏風絵のように景色をきりとるだけの絵としてみせることにするか?
いづれにしても混同されないことが基本となろう。



自然の美と秩序2011年02月21日

人が外の自然と直接に接したとき、その厳然たる現実に、はたと長い間たちすくまざるを得なかったことだろう。
しかし生きて子孫を増やし集団で生きて、社会として力をつけていくためにはそのままではいられない。
他の集団と競争しながら生存競争に打ち勝つためにはなんとかしなければいけない。
そのままでは混沌として認識できない自然をじっと観察すると見えてくる物がある。
ようやく認識できた部分のうち自分たちの生存に都合よく解釈できる部分をきっと秩序と呼んだのだと思う。
藤森輝信「建築史的モンダイ」によるとこの秩序や統一を人の目は美しいと感じたのである、とある。

非常にわかりやすい指摘。
建築を建築たらしめる部分を「美しいこと」と明快であるがもっと広く適用して考えてみたい。