オペラの声 ― 2011年08月22日

以前小澤征爾さんが若いオーケストラの指導でオペラ歌手の発声を聴かせる場面がテレビであった。
オペラでは声が大きいことは単純に優れた芸術へ近づく方法の一つだ。
まづ声が届かなくてはオペラにならないし、感動もできない。
実際にオペラ座であの歌唱を聴くと圧倒的な支配力も感じる。
同じようにヨーロッパの大聖堂の恐ろしく天井が高い内部にはいると強烈な支配力を感じる。
巨大であるか背の極端に高い構造物はどれも強い支配力をふりまくのは当たり前のことなのだろうか?。
富士山や、中央アルプスなどスケールの大きい自然の景観に強く我々の感覚は反応するが、支配力は意識されないのではないだろうか。
楠や杉の巨木を前にしてその荘厳さに打たれても支配されるように感じたことはない。
つまり大きいこと支配力を与えることが本来は同じことではないということ。
支配力を表現する手法になることは言うまでもないが、意図的でなくとも現代の構造物にはそんな表現が混じることに無頓着なものが多すぎるのではないか。
高層ビル街を歩くとそんな暴力的な支配力に圧倒される。
もっとも経済行為の高揚感につつまれたビジネスマンには一体感が感ぜられてここちよいのかもしれない。
ただ冷静な判断の必要とされる場面や、多様な創造性、独創性が求められる場面には不向きだろう。
実際は近代的な経済活動の継続にも不向きなのではないか。
日本も含め、西欧以外の文化遺産を見ると、美の価値の多様性を守ろうとするはっきりとした意志が見えている。
もしかして強さと美が等価という非常に単純な美意識の突出に疑問を感じないというのであれば、キリスト教圏独特の征服文化および価値観の無批判な受容で文化の植民地化による荒廃と貧困ということになるのだろう。
はじめの情報伝達とオペラの話に戻ると起承転結の起として大きいことは効率がいい。
誰もがたやすく注意を振り向ける。
一端注意を引きつけると後はそれほど強くなくてもしっかりと聴いてもらえる。
つまり次の情報交流の手を強く差し出すことになる。
一般の場合の問題ははじめが大きすぎると次に繋ぐのが難しくなるだけ。
オペラの場合はそのようなものとしてしっかり作曲されているので声の支配力は何ら問題なく、優秀さの要素である。
オペラでは声が大きいことは単純に優れた芸術へ近づく方法の一つだ。
まづ声が届かなくてはオペラにならないし、感動もできない。
実際にオペラ座であの歌唱を聴くと圧倒的な支配力も感じる。
同じようにヨーロッパの大聖堂の恐ろしく天井が高い内部にはいると強烈な支配力を感じる。
巨大であるか背の極端に高い構造物はどれも強い支配力をふりまくのは当たり前のことなのだろうか?。
富士山や、中央アルプスなどスケールの大きい自然の景観に強く我々の感覚は反応するが、支配力は意識されないのではないだろうか。
楠や杉の巨木を前にしてその荘厳さに打たれても支配されるように感じたことはない。
つまり大きいこと支配力を与えることが本来は同じことではないということ。
支配力を表現する手法になることは言うまでもないが、意図的でなくとも現代の構造物にはそんな表現が混じることに無頓着なものが多すぎるのではないか。
高層ビル街を歩くとそんな暴力的な支配力に圧倒される。
もっとも経済行為の高揚感につつまれたビジネスマンには一体感が感ぜられてここちよいのかもしれない。
ただ冷静な判断の必要とされる場面や、多様な創造性、独創性が求められる場面には不向きだろう。
実際は近代的な経済活動の継続にも不向きなのではないか。
日本も含め、西欧以外の文化遺産を見ると、美の価値の多様性を守ろうとするはっきりとした意志が見えている。
もしかして強さと美が等価という非常に単純な美意識の突出に疑問を感じないというのであれば、キリスト教圏独特の征服文化および価値観の無批判な受容で文化の植民地化による荒廃と貧困ということになるのだろう。
はじめの情報伝達とオペラの話に戻ると起承転結の起として大きいことは効率がいい。
誰もがたやすく注意を振り向ける。
一端注意を引きつけると後はそれほど強くなくてもしっかりと聴いてもらえる。
つまり次の情報交流の手を強く差し出すことになる。
一般の場合の問題ははじめが大きすぎると次に繋ぐのが難しくなるだけ。
オペラの場合はそのようなものとしてしっかり作曲されているので声の支配力は何ら問題なく、優秀さの要素である。
自分で全部やったの? ― 2010年10月26日

店のパンを盗めば罪人だが人の対価を盗んでも金持ちとなることはあっても、罪人にはならない。
例えば、石油ではどうなんだ、需要が多ければ価格は上がり利益はおおきくなる、石油生産に携わるひとだけの対価として得る独立した利益であって、他の人とは無関係か?
コーヒー豆は各地域のの労働を介しての生活の負担の対価が価格になる、又は封じ込められている。
流通の各過程で各文化圏での生活費がその力関係の中で対価として埋め込まれていく。
ブランド物のように数ある商品の中から、選ばれることで高い利益を得るような商品はそれに加え人の評価により余分の地益を得られる、その商品を買えない人の評価が余分な利益を支えている。
観光や、住宅産業はその環境を作った、又は維持している人々よりもそれを見つけ利益に結びつける人の利益となっているもちろん、結びつける労力はかけているのだが。
テーマパークは一から作り、運営する人に利益が行くように見えるが、楽しさのもとであるその夢はテーマパークができる前からたくさんの人びとが生活の中でもっているものを具体化したものである。
あらかじめ文化的な関連の全くない物は楽しくもおもしろくもないものである。
その楽しさを評価し語り合えるのは楽しみをわかちあえる社会により支えられている。
さてここではじめの石油に戻ると石油は消費される量はさまざまな経済活動の中できまる、つまり需要が価格を決めるとすると人の生活全体がやはり利益を決めている。
やっぱり直接利益に関係ない人全体が石油に関わる特定の利益に寄与しているのだ。
対価の不平等(文化に対する経済原理の不正)は社会全体を脆弱にし経済的な競争力も劣化させる、たぶん。
例えば、石油ではどうなんだ、需要が多ければ価格は上がり利益はおおきくなる、石油生産に携わるひとだけの対価として得る独立した利益であって、他の人とは無関係か?
コーヒー豆は各地域のの労働を介しての生活の負担の対価が価格になる、又は封じ込められている。
流通の各過程で各文化圏での生活費がその力関係の中で対価として埋め込まれていく。
ブランド物のように数ある商品の中から、選ばれることで高い利益を得るような商品はそれに加え人の評価により余分の地益を得られる、その商品を買えない人の評価が余分な利益を支えている。
観光や、住宅産業はその環境を作った、又は維持している人々よりもそれを見つけ利益に結びつける人の利益となっているもちろん、結びつける労力はかけているのだが。
テーマパークは一から作り、運営する人に利益が行くように見えるが、楽しさのもとであるその夢はテーマパークができる前からたくさんの人びとが生活の中でもっているものを具体化したものである。
あらかじめ文化的な関連の全くない物は楽しくもおもしろくもないものである。
その楽しさを評価し語り合えるのは楽しみをわかちあえる社会により支えられている。
さてここではじめの石油に戻ると石油は消費される量はさまざまな経済活動の中できまる、つまり需要が価格を決めるとすると人の生活全体がやはり利益を決めている。
やっぱり直接利益に関係ない人全体が石油に関わる特定の利益に寄与しているのだ。
対価の不平等(文化に対する経済原理の不正)は社会全体を脆弱にし経済的な競争力も劣化させる、たぶん。
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