モーツアルトと話す ― 2015年10月12日
クラシック音楽といえばモーツアルトを思い浮かべるという人は多い。
だからモーツアルトの音楽が消えるというのはいかにもわざとらしく聞こえるかもしれない。
でもそんな瞬間が確かにある。
モーツアルトを聞いている、聞いているつもりだったのがふと音楽を聴いていることは忘れて二人で話しているような気持ちになることがある。
話をしていると言っても具体的な言葉が聞こえている訳はなくて、ただああそうだね、そうだったんだというような親友との意味もない馬鹿話の後に残るような暖かく、しかし寂しさを含んだ余韻だけ。
どうしたことだろうと思っていたら遠山一行氏の著述のなかではエクスでのフィガロの結婚を見た感激がこう表現されていた。
「私はその時に、音楽というようなものは本当はどこにもありはしないのだ、あるのは、ひとりびとりの音楽家のメッセージの真実さだけだ、ということを感じた。」注(1)
更におなじ体験を後に「新潮2002年十一月号--モーツアルトをめぐる十二章」ではこう記している。
「それはただすばらしい音楽を聴いたというだけではない。
むしろ音楽というものでさえなく、一人の人間の自由な声があるのだと思った。」
そう音楽でなくなる、音楽が透明になって消えてしまい残るのは作曲家の声だけ。
ここにはコミュニケーションと思想、芸術の基本的な関係が顕れているのではないだろうか。
ここでいうコミュニケーションとは特定の条件、枠での具体的な行動を促すことの要求の伝達という実利的な意味でのコミュニケーションのことではない。
本来的に群れで生きる種として変化してきた人類が精神的に他人の存在を我が身に不可欠な存在として自分の中に取り込む(自分個人の外に広がる自分自身の確保、確認ための)コミュニケーションの方法としての問題である。
集団で生きると言っても人はまったく個として独立して離れ離れに生まれ生活する。
生き物として神経も筋肉も血管も繋がっていない他人とどうコミュニケーションがとれるだろう。
普段同じような様式で生活しておれば共通の楽しみ、苦労、怒り等々のなかで共通の行動を観察することで意識されることもなくコミュニケーションはきっと成立していたであろう。
生物学的に同じような肉体を持っていれば風雨にさらされる辛さや空腹時に食物を得た喜び、硬いものに当たった時の痛さなど他人の感覚は自分の感覚として容易に共有できる。
人どころか犬や猫でも少しはコミュニケーションは可能かもしれない。
しかし他部族間同士、あるいは人口が増え、生産量が増え活動範囲が広がり生活体験の差が大きい人とも接するようになるとこのコミュニケーションは断ち切れてしまい新たな手段が求められるようになる。
どんな方法でコミュニケーションをとたらいいのだろう。
ここでも人類は道具を発明した。
まづ人類として共通体験の延長。
価値のある衣食住に必要な交換可能な品物、先ではお金のような経済的な道具にまで展開していき最強のコミュニケーションに発展したのかもしれない。
人はその拡大した脳の働きに見合った複雑な感情を持ったせいでコミュニケーションにも複雑な情報を伝え得ることが要求されることになった。
その手段又は道具として精神的な秩序の要求に発する正義や真実を軸と考える宗教や論理である。
また人間の肉体の共通性に基礎を発するスポーツや音楽、絵画彫刻などのいわゆる造形、演劇であろう。
音階やリズム、音色による音楽もその過程の中でうまれたのだろう。
そこでは音楽は特に楽器や歌にのってひろく楽しまれた。
しかし元々の目的は音の楽しみではなく、人とのコミュニケーションへの要求から始まったのだ。
音楽自身はコミュニケーションの道具であって目的ではなかった。
モーツアルトのファンが世界にたくさんおり、誰もがモーツアルトを論じたくなり、著作も数えきれないのは理由があるのである。
道具又は副産物としての音楽をすばやく通り過ぎて人どおしの本来のコミュニケーション、作者との直接ふれあったような感覚。
ここにモーツアルトが他の音楽家と違い、曲の詩情、伝わる高揚感・思想や、生き方ではなく、特に人として愛される理由が有るのではないだろうか。
だからモーツアルトの音楽が消えるというのはいかにもわざとらしく聞こえるかもしれない。
でもそんな瞬間が確かにある。
モーツアルトを聞いている、聞いているつもりだったのがふと音楽を聴いていることは忘れて二人で話しているような気持ちになることがある。
話をしていると言っても具体的な言葉が聞こえている訳はなくて、ただああそうだね、そうだったんだというような親友との意味もない馬鹿話の後に残るような暖かく、しかし寂しさを含んだ余韻だけ。
どうしたことだろうと思っていたら遠山一行氏の著述のなかではエクスでのフィガロの結婚を見た感激がこう表現されていた。
「私はその時に、音楽というようなものは本当はどこにもありはしないのだ、あるのは、ひとりびとりの音楽家のメッセージの真実さだけだ、ということを感じた。」注(1)
更におなじ体験を後に「新潮2002年十一月号--モーツアルトをめぐる十二章」ではこう記している。
「それはただすばらしい音楽を聴いたというだけではない。
むしろ音楽というものでさえなく、一人の人間の自由な声があるのだと思った。」
そう音楽でなくなる、音楽が透明になって消えてしまい残るのは作曲家の声だけ。
ここにはコミュニケーションと思想、芸術の基本的な関係が顕れているのではないだろうか。
ここでいうコミュニケーションとは特定の条件、枠での具体的な行動を促すことの要求の伝達という実利的な意味でのコミュニケーションのことではない。
本来的に群れで生きる種として変化してきた人類が精神的に他人の存在を我が身に不可欠な存在として自分の中に取り込む(自分個人の外に広がる自分自身の確保、確認ための)コミュニケーションの方法としての問題である。
集団で生きると言っても人はまったく個として独立して離れ離れに生まれ生活する。
生き物として神経も筋肉も血管も繋がっていない他人とどうコミュニケーションがとれるだろう。
普段同じような様式で生活しておれば共通の楽しみ、苦労、怒り等々のなかで共通の行動を観察することで意識されることもなくコミュニケーションはきっと成立していたであろう。
生物学的に同じような肉体を持っていれば風雨にさらされる辛さや空腹時に食物を得た喜び、硬いものに当たった時の痛さなど他人の感覚は自分の感覚として容易に共有できる。
人どころか犬や猫でも少しはコミュニケーションは可能かもしれない。
しかし他部族間同士、あるいは人口が増え、生産量が増え活動範囲が広がり生活体験の差が大きい人とも接するようになるとこのコミュニケーションは断ち切れてしまい新たな手段が求められるようになる。
どんな方法でコミュニケーションをとたらいいのだろう。
ここでも人類は道具を発明した。
まづ人類として共通体験の延長。
価値のある衣食住に必要な交換可能な品物、先ではお金のような経済的な道具にまで展開していき最強のコミュニケーションに発展したのかもしれない。
人はその拡大した脳の働きに見合った複雑な感情を持ったせいでコミュニケーションにも複雑な情報を伝え得ることが要求されることになった。
その手段又は道具として精神的な秩序の要求に発する正義や真実を軸と考える宗教や論理である。
また人間の肉体の共通性に基礎を発するスポーツや音楽、絵画彫刻などのいわゆる造形、演劇であろう。
音階やリズム、音色による音楽もその過程の中でうまれたのだろう。
そこでは音楽は特に楽器や歌にのってひろく楽しまれた。
しかし元々の目的は音の楽しみではなく、人とのコミュニケーションへの要求から始まったのだ。
音楽自身はコミュニケーションの道具であって目的ではなかった。
モーツアルトのファンが世界にたくさんおり、誰もがモーツアルトを論じたくなり、著作も数えきれないのは理由があるのである。
道具又は副産物としての音楽をすばやく通り過ぎて人どおしの本来のコミュニケーション、作者との直接ふれあったような感覚。
ここにモーツアルトが他の音楽家と違い、曲の詩情、伝わる高揚感・思想や、生き方ではなく、特に人として愛される理由が有るのではないだろうか。
最近のコメント