演じるあなたは舞台の上で役柄にふさわしい位置に立っているだろうか。2013年10月21日

自分のいる位置との関係が実際の風景と一致しているか?
目の前に見える風景が自分の位置から断絶して(途切れて)いると混乱が生じる。
ストレスとなる。緊張、インパクト、驚き
適当な関係で繫がっているか。
過去の蓄積と違和感なく、その延長上に位置しているか。

距離にまつわる適当な関係
他人と我が身の安全な距離
重力の勾配に対応した安定した風景の中の自分の位置
何よりも目標として
自分の自由と優位は保証される位置
拡がり、他人に遮られない自分の身の延長
他人の侵入をゆるさない。中心、存在感、所有感
公園 庭を味わう、求める理由は?
拡がりの中で自己開放
自己と周りの自然や他人の中でっちょうど自分にぴったりあった位置と感じる場を見つけストレスから自由になる。
(普段は自分のこうああてほしい、こうあるべきだという位置認識が現実に感じる一認識が一致していないので公園や庭でそれを実現したい。--遊園地や娯楽小説、娯楽テレビも??)

拡がりを独り占め、他人は影響を感じる距離以上離れている。
適当な共有感にふさわしい距離だけ離れているのでストレスを感じない、つまりリラックス。
この創出と操作が造園の前提と考える。
自分のいる位置との関係が実際の風景と一致しているか?というのは
演じるあなたは舞台の上で役柄にふさわしい位置に立っているだろうか。ということだと思う。



他人と自分とコミュニケーション2013年09月17日

他人がみたものと自分が見た物は元々は差がなかったのかもしれない。
群れの中の一頭の鹿が危険を見つけて逃げると群れの他のしかも一斉に逃げ始める。
一頭が捕まっても痛みはない。群れであって肉体的に繫がっていないのだから当然であるが更にその個体にも痛みを感じる感情は無いのではないか。
つまり個と群れの差がないとき感情もない。
痛みの感情は個と群れ(他)が別になった時のコミュニケーションの必要性から生まれた機能ではないか。
つまり、もともと自分が見た物と他人が見た物の区別はなく、感情表現を介して伝わる過程で自分の痛み、体験と自分が得た情報としての痛み、経験を区別するようになり、自分と他人が分けられるようになったのではないか。
楽しさ、快楽、憩いの感覚もそんななかで意識されるようになったのではないか。
コミュニケーションの進化は社会の構成に変化を与え、結果として大きく広く拡がり強くなる。
社会の構成の進化の過程で顕れた成果の差異、評価が意識され始めた。
個人が所有と関連づけての体験が他人の体験と自分の体験を強く区別する習慣がついたのではないか。
個体の識別意識は消費の増大と表裏一体に異常に肥大し続け近代ができあがった。
今で言う「自己と他人」ができあがった。
人はすっかり変わってしまったのだろうか?。
でもすばらしい過去の庭園を見るたびに変わっていないと強く意識される。
やっぱり長い人の歴史から考えるとほんの短い間でしかない、つまり小さい変化ではないかとも思う。
近代的でない自己と他人」の関係、基礎となって生きている「自己と他人」があるような気がする。
それが時代の「小さな」変化に影響されない場のデザインに繫がるような気がします。
夏の稔り



三人寄れば文殊の知恵2012年07月27日

大阪万国博覧会や東京オリンピックといった国を挙げてという様な事業で名前が出てくる亀倉雄策と丹下健三、岡本太郎の三人。
丹下によるとこの三人が討論すると丁度みつどもえになったという。
丹下は亀倉にはやりこめられ、岡本は亀倉をこてんぱにいい岡本は丹下にはおとなしかったという。
おのおのの違いが典型的で興味深い。

亀倉のデザイン作業は創造的な種の整理整頓、つまり秩序、本来的に余分のそぎおとし。
結果的に常にはみ出したエネルギーはそがれおとなしくなる。
情報量は少なくなることで鮮明になるようをひたすら操作する。
グラフィックデザインは基本的にコントロール可能なスケールでの作業である。

丹下の建築はスケールと構造を持ち人間に対するインパクトは自然にわきでてくる。
積極的に利用するにしろやりすごし気がつかないようにするにしろ
そのコントロールにデザイン作業を使い結果的に折り合いをつけたことにする。
インパクトは変化しつつ残るがデザインの一貫性も不完全となる。

岡本の造形は秩序や隠蔽の破壊によるインパクトの表出作業であり、スケールや構造は表現要素の一部であるが、実際の表現に当たってはその物理的なコントロールが必然となり技術的な限界と戦わねばならない。
その技術を持つ建築家はは現実的に見方につけておきたい存在である。
情報は雑然としているかもしれないが、とにかく意図したい方向に強いことが重要である。

三人寄れば文殊の知恵ともいいますが確かにお互いがぶつかりあうと豊かな結果が期待できたようです。
空気を読むだけでは仕事は早く進んでも三人の知恵が一人の知恵に及ばないのは明らかで結果は推して知るべし。

高級料亭の庭とガラス2012年04月24日

高級な料亭やホテルの庭とはたいてい大きなガラスで隔てられている。
暑さ寒さに敏感な現代人には当たり前の光景だ。
でもたいていの場合美しいはずの景色は相客への挨拶の中だけで中途半端で不可解な景観がひろがっているだけ。
せっかくこんなにきれいにしている、見事!なのにどうしてだろう。

まづ庭との間にはは大きなガラス壁がある。
囲われて創られると自由が無くなる。
壁構造とは一の行動を制限する、止める壁で場をつくるということ。
暑さ寒さみ含めて厳重に守られた場ができあがる。
守られるという機能と引き替えに閉じこめられるという強制を受けることになる。
むしろ自由が無くなった言い訳が機能であると考えるようにしているようだ。
建築は西欧では人を操作する装置として建築をつくってきたともいえるかもしれない。

日本ではその意味での建築は一に対し支配的にならなかった。
異民族に対し、文化のシンボルをつくらねばならないという切迫した要求はなかった。
したがって自然現象からの選択的に選んだ機能つまり雨風よけとしてのシェルターを基本にその時代の文化的な嗜好で宗教性や差別化の要素をとりいれながら味わいのみ追求して技術が蓄積されてきた。
床の間、欄間、部屋の連なりによる柱、ふすま、障子等々。

日本建築で使われるガラスの(壁)の不安定な位置
人を止める壁が視線を止めない。
人を止めるために視線を止めるために使うのが壁のはづ。
壁とは野暮な衝立のはずだったのに。

茶室は壁で囲まれているがほんとうは衝立が必要なところにあればいいのだ。
だが 野の田舎屋をを想定しているので壁になってしまっただけ、壁で済みませんねという感じ。
文化的な施設の整った宮中ではなく、社会的な地位にとらわれることの不自由さからのつかの間の自由を得るための設備としての茶室、だから壁でもいいのだ、我慢するのだ。

さてここにガラスの壁のやっかいさがある。
衝立としての壁なら細かく格子でもつけてやるか
寝殿造りの縁のように庶民から引き離す高低差の代わりに使うか
ふすま絵や屏風絵のように景色をきりとるだけの絵としてみせることにするか?
いづれにしても混同されないことが基本となろう。



街のすがた2008年12月19日

いずれにしても”もの”は意味を表している。 いつも同じ面を見ているわけではないけれど。 他人に見せたい、他人が見て楽しいような面が見えたら楽しい街の姿が見えるのだろうか。 他人は分かりにくいものだから、一見してわかりやすそうに見える部分が外に顕れていると、”いい街”に見えるのだろうかと若いとき考えていたことを思いながら12月の街を歩く。